エレカシの歌の中に、一番好きな歌がいくつかある。「シグナル」は間違いなくこの中に入る1曲である。
昔、離島で家作りをしていたことがある。
その頃、日中、家作りのBGMとして「町を見下ろす丘」「俺の道」「DEAD OR AlIVE」辺りのCDをリピート再生で流していた。まだこれらのCDを聴いたことがなかったのだ。
丸ノコで材木を切りながらだったので、遠くの方から歌が聴こえてくるが、歌詞がはっきりと聞き取れない状態だった。
しかし、何度もたくさんの曲がリピートされている中で、なんとも耳に残る曲調の歌があった。
それが「シグナル」だった。
しかも、途中曲調ががらっと変わる部分を私は2曲の別の歌だと勘違いしていた。1曲の長い歌だったのだ。
そして夜、歌詞カードを読んでは、何度も何度も聴いた。
夜はふけわたり 家までの帰り道
町を見下ろす 丘の上立ち止まり
はるか、かなた、 月青く
俺を照らす 街灯の下
ベンチに座り、自分の影見つめてた。
落ち着いたやさしい曲調ではじまる。
終電から降りて、深夜1時、2時くらいだろうか。月が高く、青く輝いており、空気がキンと冷たい。町を見下ろす丘の上の小さな公園で、男がふと立ち止まり、ベンチに座り、自分の影を見つめるまでの動作が1つ1つ、とつとつと語られる。こんな夜更けの公園に人はいない。男だけである。男は自分の影を見つめている。思い詰めている。
あの悲しみにひとりで涙した夜もある
やさしさもとめ、日々をうろつきまわり…
なくなよ、男よなくな 子供ら帰りし公園。
さうだろ? 今さらどこへにげるのさ?
「あの悲しみ」は本当に好きだった女性との別れだろう。
「やさしさ」とはその女性がくれた「やさしさ」だろう。その女性その人といってもいいかもしれない。「やさしさ」を求めて、亡霊のように昔、彼女と行った場所を訪ねていったこともあるだろう。でもそこにあるのは彼女の面影だけであり、失った彼女は帰ってはこない。またはその女性と同じような「やさしさ」を別の女性に求めたこともあるかもしれない。でもその人のような「やさしさ」は帰ってこない。何をしていてもその人なしには空虚な日々なのだろう。
男は涙を止めることができない。
「子供ら帰りし公園」は未来の喪失感の究極の表現。「子供」はにぎやかさ、未来、あるいは幸せの象徴であり、その子供らが帰ってしまった誰もいない公園というのは、にぎやかだった二人の生活が終わり、一人取り残されたこと、または幸せになるはずだった未来が遠くに消えていってしまったことを表現していると思う。
すべては消えてしまった。
男は自問自答する。「今さらどこに逃げるというのか、どこにも逃げることはできない。あの人のいない人生を一人で歩いて行かねばならない」と。
どのみち俺は道半ばに命燃やし尽くす
その日まで咲きつづける花となれ。
どっちみち行くしかないのだ。逃げ道などない。俺はまだ志半ばなのだ。自分が死ぬその日まで、毎年、毎年、咲く花のように、何度でも立ち上がり、生きてゆきたい。
雨上がりビルの向かうには晴れた空。
行けよまん中、太陽がまぶしいぜ。
おのづから歩み進め。
道に咲く花のやうに 本当さ、いつかこの空ひとりじめ
まだ夜であり、男はベンチに座っている。悲しみにくれていた男の涙は止まり、次第に頭の中には自分を奮い立たせるイメージが湧き起こっている。
雨が上がり、ビルの向こうに晴れ渡った空が大きく広がっているイメージ。それを男が丘から見下ろしているイメージ。「ビル」は、男が今生活しているにぎやかな世間の象徴であり、「雨」は「あの悲しみ」だろう。悲しみを越えて、太陽の日を浴びて、この世間のど真ん中を胸を張って歩いて行く。
「おのずから歩み進め」には「破滅を遥か望むより、俺が破滅へ0向かって力強く歩むこと」(『漂う人の性』DEAD OR ALIVE)と同じ意味が込められていると感じた。ただ死を待つのではなく、死に向かって「おのずから」歩め、と。
道に咲く花は、太陽の光を受け、咲き、枯れてもまた、咲く。死ぬまで咲き続ける。花は、小さくとも、この晴れ渡った大きな空をひとりじめしている存在なのだ。男も咲き続けて花のようにありたいと願う。
あのころキミは 求めつづけ
遠くばかり見てゐた。
今はもう まよはずに行けるさ
はるか、かなた青く光る月が語りかけているように、男は感じた。
あのころの「キミ」は自分の夢を追い求めるあまり、遠くばかりを見て、一番近くにいる一番大切な人が見えていなかった、と。
男は答える。
今なら、迷うことなく行けるさ、と。
この男の答えには、2つの意味を私は感じた。
1つ目は、もし、彼女と最後の別れになってしまったあの日、あの時に戻れるとすれば、今の自分なら迷うことなく彼女を追いかけていける、という意味。
アルバム『悪魔のささやき~そして、心に火を灯す旅~』の「幸せよ、この指とまれ」という歌の一節に、
「あの雨の交差点 信号が点滅してたなんて嘘さ
置き去りの俺 迎えに行け」
というフレーズがある。
男が彼女と別れた日の鮮明な記憶。夜、部屋を飛び出した彼女。追いかける男。外は雨。彼女が交差点の信号を渡り切ったとき、信号が点滅する。男は足を止めてしまい、赤になった信号の先に小さくなっていく彼女をただ立ち尽くして見ていた。「信号が点滅していたから…」というそんな小さな理由で、追いかけるのを止めてしまった。これが彼女との最後の別れになってしまったのだ。本当は信号は点滅してさえいなかったのかもしれない…。
タイトルである、シグナル=信号は、男にとって彼女との別れの場面の象徴である。
2つ目は、彼女のことを時折思い出して死ぬほど苦しいけれど、自分ひとりで歩いて行けるさ、行けるよな俺という意味。
シグナル=信号は、自らの道、未来を指し示す象徴でもある。
悲しみの月日が新たな歴史のシグナル
いまからはじまる未来のあなたのシグナル
悲しみの月日がいまからはじまる新しい未来を指し示すシグナルつまり、
悲しい過去があるからこそ新しい未来に向かって力強く歩いて行ける。
そしてこのフレーズは、様々な悲しみを抱えて生きている聴き手(あなた)へのメッセージとなっている。
今宵の月が満ち欠ける 町見下ろす丘に。
「どの道キミは、ひとりの男、心の花 さかせる、人であれよと」
今宵の月は、昨日の月であり、明日の月でもある。同じ月が満ち欠けを繰り返しながら、昇り、沈み、また昇ってくる。毎日、町見下ろす丘を照らしている。
すべてを照らし過去も、今も、未来も見ている存在としての月が男に語る。
彼女といてもいなくても、どっちみちキミはただのひとりの男だ。そのことには変わりない。悲しい過去を糧として自分の花を咲かせる人であれ、と。
どの道俺は…
そうさ、どっちみち俺は…行くしかねえ。
※ 引用箇所はすべて、作詞・作曲 宮本浩次